追記(長野原町民が八ッ場ダム中止問題の矢面に立たされている3つの理由について)

長野原町民が八ッ場(やんば)ダム中止問題の矢面に立たされている3つの理由 - 「まずまずのダム日和」について多数の方にご覧頂き、またはてブお寄せいただきどうもありがとうございました。
ブックマークのコメントを拝見した上で若干補足させていただきます。
尻切れになってしまってしっかり記述していなかったのですが、熊本県の蒲島知事の演説を紹介したのは

  • ダム事業中止を決定する際はこれだけ慎重に行われているという最近の実例
  • それでも地元は現在も中止に反対しており、治水の代替案も今だ結論が出せず

という現実を伝えたかったからです。
それと比較して、今回の前原大臣のやり方というのはあまりに荒っぽく、これじゃあ絶対うまく行かないよなーという事を率直な感想として持っています。また、川辺川ダムの場合は流域が熊本県1県であり、担う機能としても治水しかないのに今だその代替案の結論は出ず議論が続いているという現実があります。しかし、八ッ場ダムの場合関係する自治体が1都5県に及び、治水以外にも利水の代替案を出さなくてはならなくなる。しかも、中止をしようとしているのは国だけであり、各自治体は「八ッ場ダムは必要だ」というスタンスを変えていないのです。はっきり言ってこの調整の難しさは川辺川ダムをはじめとする従来のダムを中止するケースを大きく上回るでしょう。そういった意味でも相当慎重さが求められるんじゃないかと思うのですが、はたしてこれは意識してあえてやってるのでしょうか。僕はよくわからない。
また、記事の中で八ッ場ダムの効果やコストについてはあえて論じませんでした。なぜそうしたかといえば、今回のこのケースは野党や市民団体が「反対運動として建設中止」を求めているのではなく、「国が政策として中止しようとしている」のだからです。
市民団体が自治体を相手取り裁判を起こしてその判決についてあーだこうだ論じるのであれば双方のデータを引用して問題点を指摘しこの事業の意義を問うなんてことにも意味があるでしょう。しかし、現在の「八ッ場ダム中止」という話は「政策」です。しかもその政策が意図するところがはっきりと明示されないまま、ただ事だけが進んでいて「長野原町民」という被害を受けてる人が居るわけですよ。
仮に現政権が「反対派市民団体の主張をそのまま政策として取り入れ、それにそって建設を中止し、代替案を模索する」という事を表明し行うのであれば、それは政策として確立しておりそれに対して評価や批判をすることは意味がある事だと思います。
しかし、あのエントリで書いた通り、現政権は中止の理由をきちんと言明していません。政策執行のプロセスとして明らかに問題があるのです。「中止運動があった」とか「検討された」ではなく、政策に対する説明責任として中止の表明に先立ってきちんと表明される必要があることなのです。このままの状態で中止されるような事があれば、行政代執行によって強制的に立ち退きされ重機で強引に家を壊されるような状況とまったくかわらないんじゃないかとすら思います。
繰り返しますが、「八ッ場ダム中止」というのは政権交代によって意味が180度変わりました。そこを反対運動をしている市民団体も、落選したとはいえ与党の関係者である社民党保坂氏も、どっかからデータをひっぱってきて八ッ場ダムの意義を論じているようなネット上の言説もはっきりいって分かっていないんじゃないか。
僕は八ッ場ダムについて市民団体が起こした裁判の地裁判決が出始める少しまえくらいから、単純に興味の対象として見てきました。そして今後もそういう物として見ていこうと思っています。もちろん、その問題を理解する中で賛成か反対かみたいな部分を含めた自分の中のこの問題に対するスタンスというのも当然生じていますし、もっと根源的な話として「どういう理由であれ自分の好きなものが悪く言われるのはなんか忍びないよね」っていうレベルでダムを否定されることを嫌だなーと思ったりはします。
しかし、「未だかつて無い構図でこじれにこじれたダム事業が中止にされようとしている」という点において、これからどんな事になるのか、はっきり言ってその部分の興味が一番大きいです。上から目線とか趣味悪いとか思われるかもしれませんが、だって面白すぎるじゃん。どう考えてもやめられないでしょ。