雲仙普賢岳の大火砕流災害の話

この間ちょうど雲仙に行ってきて、見てきたことの復習やらまとめやらニコ生でしゃべったりするためにざっくり調べたり手元に資料があったりするのでちょっと。
こんな記事がはてブを集めてた。

マスコミが報じない「雲仙・普賢岳噴火災害の真相」 - 狼魔人日記

僕もこのイメージが頭に有って、ずいぶんだよなーと思っていたんだけど、今回図書館で借りてきた雲仙火山災害における防災対策と復興対策―火山工学の確立を目指してっていう平成大噴火について噴火活動の開始から終息、災害復旧復興に至る流れが詳細に書かれている2000年に刊行された本を読んでみて、当初のイメージとちょっと違ってきたので紹介してみる。
平成大噴火と呼ばれる一連の火山活動は1990年の11月に普賢岳の火口から2本の噴煙が確認されたことからはじまり、翌年2月に再噴火。噴煙による降灰は徐々に社会生活に影響を及ぼしはじめ5月には水無川で土石流を引き起こす。同じく5月には火口に溶岩ドームが出現、24日には小規模な崩壊を引き起こし、それがこの噴火で初めての火砕流となる。
ちなみに雲仙普賢岳で有史以来これを含めて3回の噴火が記録にのこっているそうだけど、火砕流が発生したのは平成大噴火のみとのこと。なので、噴火が始まった際、まず心配されたのが雲仙の北側にある眉山が崩壊して島原市街が山津波に襲われる1792年に発生した「島原大変肥後迷惑」の再来。その後火山灰によって引き起こされる土石流の対策に追われてたようで、火砕流の発生というのは想定外の出来事であり専門家以外にはそれがどういうものかという知識がほとんどなかったというのが当時の状況だったぽいです。
その後、火砕流は断続的に発生し5月26日には「火砕流による避難勧告」が出され、その後水無川上流の砂防ダム工事現場にいた作業員が火砕流により負傷、29日にはこれまでで最大の火砕流により山火事が発生と日に日に規模が大きくなってくる。
ところが26日の火砕流被害では「長袖のシャツをきておれば大丈夫」のようなデマみたいな話は伝わるも危険だという情報は伝わらず、マスコミ以外にも現地の住民が昼間洗濯や畑の世話で指定地域内の立ち入りが日常的に行われており警察による交通規制も行われていませんでした。さらに梅雨を前にして土石流の対策を急ぐ必要があり29日には水無川内の土砂を取り除く工事が再開されたりと、当時の火砕流に対する大多数の認識がそれほどひっ迫した物ではなかったという事が感じとれる。また、こんな状況であり、さらに土石流の監視は通常川に設置したワイヤーセンサーで行われるけど、26日に切断されて復旧できなかったため人手による監視が必要となり、その監視要員の消防団の詰め所を避難勧告の地域内にある「北上木場農業研修所」に戻したりしてる。
そんな状況の中、6月3日に死者・行方不明者43名の被害を被る大火砕流が発生するわけだけど、じゃあなぜ住人の被害が出なかったのか。この本によれば、当時雨が降り出したために土石流を警戒して避難所に引き上げたから、また、前日に市議会議員選挙が行われていてその当選祝いが別の地区で有った事も影響したとされている。これを読んだ限りだと状況的にたまたまこのタイミングで火砕流があって、この被害になったという感じなわけです。
さらに、当初の予定では翌日の6月4日に集落総出で現地の農産品である「葉タバコの花摘み」をする事になっていて、もしそのとき発生していたらさらに大きな被害が発生してたかもしれないわけで。

避難した住民の民家にテレビ局のクルーが上がり込み、無人カメラのための電源を無断で使用していたことなどに対して住民の苦情があり、島原警察署長が2日に島原市災害対策本部で取材のモラルについて要望した。消防団員は避難した住民の留守宅の警戒もすることになっていた

っていう事実は確かに酷いしそこは批判されるべきポイントだと思う。ただ、全体の構図を見てみると、いったい何がどうなのかって結構むずかしい話なんじゃないかな、という気がする。その後、法的拘束力のない「避難勧告」にかわって災害対策基本法に基づく罰則規定のある「警戒区域」が6月6日に決定され翌日指定、現在も普賢岳周辺は継続して設定されています。
ちなみに、当時、取材していたマスコミが「定点」と呼んでいた被災した取材ポイントの被災前の写真が資料館に展示されてました。

その近くまで行って撮影した写真がこんな感じ。標高は大分高いです。

ちなみに、消防団の詰め所となっていた北上木場農業研修所も火砕流被災し、現在跡地には慰霊碑がたてられてるそうですが警戒区域内のために有るため立ち入ることはできなかったです