時かけクロック作って喜んでるお前が言うなという事は置いといて

http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20061021k0000m040142000c.html
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20061021k0000m040142000c.html

荒川洋治さんの出演するラジオとかエッセイをよく聞いたり読んだりするのですが、これは著作権とかそういうところじゃなくて現代詩人として日本の現代詩・自由詩の現場に居る人だからこそいえる批判なんじゃないかなぁ、と思います。言い換えれば「テルーの唄」という作品に対する批判。だからそうだそうだ、と周りが乗っかるのもなんだか筋違い。
荒川さんはことある毎に、「日本は短歌や俳句といった定型詩は非常に発達しているのに自由詩にはまったく目を向けられない。」「日本では小説は親しまれているのに詩は難解な物として敬遠される」みたいな主張をされていまして、日本において自由詩というものがどのように扱われているかを肌身にしみて知っておりそれを問題として世に訴えている人なんですね。
本歌取りとかそういうものの場合、その元となる物のライブラリというのがバックに有って、それがいつか共有される事が期待されて初めて成り立つのだと思うのですが、日本において自由詩の場合、そういうライブラリがごく一部の人にしか存在しない(街行く人に「日本を代表する詩人、萩原朔太郎の詩の一節をなんでもいいですから答えてください」と聞いても答えられる人少なそうでしょ。)という特殊な事情があるのに、(原詩者の明記などといった)特段の配慮も無く、しかもモチーフを借りて組替えただけの詩(のように見えたんでしょう)を自分の作詞だ、と言い切ることに憤りを覚えたんじゃ無いでしょうか。
ちょうどオレンジレンジに憤ってる人と同じ構図(受けての若年者層はおそらくモチーフとなっている原曲を知らないのに、その事を良く知らされないままにオレンジレンジの楽曲として提供されているみたいな)かな。それって、暗に作品のレベルの低さを指摘しているわけで、そっちのほうが作った立場としてはキツそう。

っていうか、著作権が切れてようが切れてまいがパクったらパクリだよね。

テルーの唄がそうだ、というのではなくて、一般論として。
例えば、青空文庫に登録されてる文語体の小説を口語体に直して若干色をつけた程度のものを完全な自作です、っていうのはどうかという感じがするでしょ。ただ、ちゃんと元がありますよって断った上で公表したときにパクリと呼ばれるかどうかはまた別の話。
著作権が有効/無効以前にパクリかどうかという事はあって、著作権が切れていなければその権利関係の問題が出てくるだけのことで(口語体に直すことに創作性がないとか、その作品に価値が無いって言っているわけじゃないよ、一応)。オリジナルの有無とパクリと著作権侵害はイコールじゃない、と。
はてなブックマーク - ゲド戦記:挿入歌の歌詞が朔太郎の詩と酷似―今日の話題:MSN毎日インタラクティブはてブのコメント見てるとそこら辺がごっちゃになっててなんだかおかしなことになってる。