ヱヴァンゲリヲン新劇場版が土木「フェチ」映画な理由

前のエントリのタイトルにある、「土木『フェチ』映画」というのは、ふっと感覚的に出てきた言葉なんだけど、何でフェチなのか上手く説明できなくて、でもフェチだよなーという事で括弧をつけてみた。それから考えていくうちに土木映画ではなく何故フェチなのかの理由が整理できてきたので、まとめる意味で書いてみる。
土木映画ではなく土木「フェチ」映画な理由、それは描かれ方の過剰さだ。
僕がダム等ををみて惹かれる点に、「過剰」さというのがある。ダムやゲート大きさなんていうのはまず真っ先にあげられることであるし、それが制御している水やそれによって蓄えられているエネルギーも日常の単位とはかけ離れた過剰な物であるといえる。そう、土木施設というのはもともとある種の過剰さを持っているのだといえるだろう。
それが、ヱヴァンゲリヲン新劇場版ではさらに過剰に描かれている。ヤシマ作戦のために集められた機材の過剰さ、やたらと密集して建てられている綾波レイの済む団地の過剰さ。前エントリーでグッきたと書いた部屋が一面同じ構造物によって構成されている過剰さ。もともと過剰な物をさらに過剰に描くある種の偏執的な感覚。これがフェチと書きたくなった理由に違いない。
おそらくこの過剰さは、単に監督が「土木構造物が好きだー!」という叫びの表明というわけじゃなくて、エヴァの根底にある論理なんじゃないかと思う。パンフレットを見ると

エヴァ』は初出時から究めて貧欲な作品であった。古今東西の映像文化、科学、SF、軍事、バイオテクノロジー、コンピュータサイエンス、心理学、そして宗教関係にいたるまで、数々の専門用語や引用で武装され、衒学的な雰囲気を醸し出している。

とある。あらゆる物を無暗矢鱈と詰め込んでインフレを起こすハイテンションな世界の中で物語が繰り広げられているのだ。そんな中で、作品のテンションをあげる為の燃料としてこの「過剰な土木構造物達」が存在しているんじゃないか
と、ストーリーもちゃんと理解してないのにもっともらしいことを書いてみたくなって書きました。すいません。
他のブログの感想とか見ると予告に驚いてたりしますが、ごめん、そのへん全然分からない。うわー。
すいません、後で、ちゃんともう一回見ます。