「屈折した片思い」をそれとなく眺める

はてブの注目のエントリから。「住宅都市整理公団」の大山顕さんの記事

「住宅都市整理公団」別棟 : 「屈折した片思いとしての団地愛」よりさらに屈折して
でもぼくもその先をすこしは意識してて、でその点ぼくが一番警戒するのは、ノスタルジーだ。ノスタルジーはそのスタンスで語ったとたん、それを持っていない人に対して排他的に働くものだと思う。「良くない風景」と言われているものに対して「いや、アリだよ」というところまではいいけど、その先には「風景観」を深める道筋が見えない。ノスタルジーって思いっきり閉じてる。

ダムを見たりレポートを書いたりするときに、割と「物語」的な要素を自覚して見て回ったり書いてたりするので(最近は特に)、ちょっとギクリとさせられました。でも、そういったものを完全に否定するべきなのかといえばそうでもないんじゃないかな、と思うんです。
ノスタルジーのような「物語」的な要素はある種レンズフィルターの様な働きをすると思うんです。だから、ある部分を見えなくしてしまうけど、ある部分を見やすくしたり強調したりしてくれる。確かにそのフィルターを通した景色だけが一人歩きすることを危惧されるかもしれないけど、いままで気にもとめなかった視線を一瞬こちらに振り向かせてくれるきっかけとして、十分有りなんじゃないのかと思うんです。結構、そういう希望みたいなの持ってサイトにレポート書いたりDamMaps作ったりしてる。
ただ、この大山顕さんの記事の言及先である石川初さん(地図に絵を書く人だ)の記事にある

屈折した片思いとしての団地愛 - 身辺メモ
でも、団地的存在が団地的風景への熱いまなざしを自覚しちゃうと、化粧蓋的な「嫌われ者からの反省のラブコール」よりも、ずっと深刻なことになってしまうような気がする。件の「団地本」はよく踏み留まっているが、団地的風景はつねに、特にここ最近、昭和三十年代・三丁目の夕陽的ノスタルジーに乗っ取られる危険を孕んでいる。ことに、ポピュラリティを獲得してメディアを通ったりすると、この手の趣味はしばしばそういう安易な物語に還元・回収されてしまう。

という記述を目にすると「団地マニア」という位置にいるからこその憂いなのかなという気がしなくも有りません。
ほらだって、ダムの場合、相手が自覚したところで大きいダムが作られる訳無いし、既設のダムがどうこうなる訳じゃ無いだろうし、万人に通じるようなノスタルジー的な要素ってあまり無いし(強いて言えばプロジェクトX的な物か)、監査廊とかキャットウォーク入れてくれるようになったら嬉しいし、建設現場見たいし…。