かがやくところ

日本ダム協会の掲示板に昨日日テレで夜やっていた特番のことが書かれていた。
私も番組をちゃんと見ていたわけじゃないが、ダムが出てこないのに貯水池をあえてダムと読み替えたのは、ダムの持っているステレオタイプなイメージをに引っ張ってきて、構図を単純化するためなんだろうな、みたいなことをなんとなく思った。っていうか、全体的に番組の構成がそういう感じになってたよね。分かりやすい悪役を立ててそれを叩いているだけみたいな。
で、ちょっと引用。

http://wwwsoc.nii.ac.jp/cgi-bin/jdf/keijiban/ezbbs1.cgi
http://wwwsoc.nii.ac.jp/cgi-bin/jdf/keijiban/ezbbs1.cgi
07/01/09(火)17:42:57 投稿者[Jny]
【No.1072】 [RE:ダムは悪者?(ResNo.1071)]
仰るとおり、ダムは悪者にされてしまいました。
しかし、佐久間ダムや黒部ダムができた頃は、ダムは輝ける希望でした。
どうしてこんなことになってしまったのか、誰か調べてくれるといいのにと思います。

具体的なこういう出来事があってみたいな話は書けないので置いておいて、話の種になんとなく思ったことをつらつらと。
まずは、懲りずに時かけ話で恐縮なのだが、細田守監督の話から。

http://www.kadokawa.co.jp/blog/tokikake/2006/07/post_68.php
http://www.kadokawa.co.jp/blog/tokikake/2006/07/post_68.php
原作を改めて読むと、当時の印象と違って、むしろ新鮮な体験があったです。未来世界の描写が沢山あって、後半の結構な分量をケン・ソゴルが語っている。
そこが印象的だったんです。当時の少年少女たちが、こんなに未来を夢見てたんだなって。で、今の10代の人たちが、同じような未来像を持ってるのかっていうと、それは全く違う物になるだろうと。今の人たちはどういう未来を考えるんだろう、そこから考え始めたんですね。
それで原作と違う、アクティブな女の子、SF的な未来像ではなく未来に繋がる人物像を考えて、こういったキャラクターになったんです。
テーマ的には、若者みんなが共通して思っている未来観って、20世紀的なんじゃないかと。21世紀ってのは、みんなが共有できる未来像なんてなくて、個人個人の未来像しかないんじゃないか。

未来像というものが共有できたものから個々人が内に持つものという流れ。この流れの移り変わりこそが、ダムの輝きを失なうことになった要因のような気がする。
黒部の太陽」で描かれているような熱狂を実際に目にしたわけではないので、それがどれほどのものだったのだろうというのは良くわからないけど、目の前にある電力危機とそれを何とかした先にある明るい未来という構図は分かる。そしてそれを誰もが共有した認識として持っていたというのもなんとなく理解できる。「みんなが共有できる未来像」を具現化する存在だったから「ダムは輝ける希望」足りえたのだ。
ところが、未来というものを個人個人が持つ現在の世の中で、その未来像の中に「ダム」を置こうとする人がどれだけ居るだろうか。おそらく仕事でダムに携わっている人か、ダム建設に反対している人か、あとはダムマニアくらいだ。もうかつて有った輝く舞台はない。未来の利水や治水の効果を語ったって、それを自分の未来に取り込んではくれない。
では、もうスポットライトの当たる場所は無いのか。それは「未来」ではなくて「現在」にあるんじゃないだろうか。
それは、「大人の社会科見学」というキーワードで示されるようなことだったり、「東京ジオサイトプロジェクト」に見られるようなアプローチであったりと、まだ模索の途中ではあるもののすでにその当事者には理解されつつあることなのではという気がする。
昔のような輝きを取り戻すことは出来ないかもしれない。でも、ステレオタイプな語られ方からの脱却への道は確かにあるのではないかと思う。